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ワタシの12年前

今朝の近畿は雨。慰霊祭でもキャンドルがなかなか点かなかったりしたそうです。

あの朝、もしも雨が降っていれば…火災による被害は少しは小さくなったかもしれない…けれど、あれだけ寒かったのに、雨に打たれていたら、高齢者や子供達の避難所での健康被害はもっと大きくなっていたかもしれない。 でも…「もしも」はもうないです。起ったことだからね…

平成7年1月16日夜。ワタシは新居の片付けをしていた。

土曜日・成人の日(日曜)・振り替え休日の三連休の最終日。まだワタシは実家でダンナは社員寮で暮らしていた。

ホンの些細なコトでケンかになり、結婚なんかしない!と言い置いて帰ってきた。つまらない意地の張り合いで。

そして次の朝、5時45分。いつものように目覚ましがなった。自室のベッドで寝ぼけながら15分間テレビを見て、それから起き出すのが当時の習慣。

昨日のケンカを思い出し「結婚したら、こんなんできへんやん!こんな気持ちのいい時間がなくなるなんて!やっぱヤーメタ!」とココロの中で毒づいてた。   テレビのリモコンでスイッチを入れて…

かすかに風が吹いた気がした。室内なのに…? 

次の瞬間。どん! ベッドから転げ落ちそうになる衝撃。ナニコレ?

立て続けにぐらぐらでなく、ゆっさ、ゆっさ、ゆっさ… 風雨の中で遊覧船にでも乗っているかのような横揺れ。天井がひし形になるのが見えた。家が鳴っている。ぎーぎー櫓でも漕ぐような音。

さっきつけたテレビは、画面が真っ暗なまま女性アナウンサーの悲鳴だけが響いていた。揺れが治まる頃になって初めて男性アナウンサーの声「地震です。かなり大きな地震です。」わかってます…

自室からダンナの部屋へ電話をし、無事を確認、新居で落ち合う約束をした。

家人の無事と家の被害がなかったことを確認して車で家を出た。近くのパン屋さんで朝食のサンドイッチを買って大きな地震だったねぇと話をした。朝6時過ぎ。

自動車専用道路は閉鎖、あちこちの高架橋も通れなくなっていたで、JRの線路を越えようとしたが、故障らしく遮断機があがらない。電車なんか一本も来ないのに、ずっと警報が鳴りっぱなしだった。10台以上が並んでいるということは、地震からずっとなのか…仕方なく列について並んでいると、近くの住人らしき男性が脚立を持ってきてくれた。遮断機を持ち上げておこうということらしい。

いつもなら10分で到着するはずの場所に1時間ちかくかかった。朝7時過ぎ。

新居マンションはしっかりしたつくりだったらしく、被害はなかった。管理人さんや既に入居しておられたご近所さんから、揺れて怖かったよと聞いた。最上階のお部屋だけ幾枚か飾り皿が割れたと言ってた。テレビもラジオも「大阪府兵庫県を中心に被害が出ている模様」とばかり伝えていた。ダンナの実家に連絡を入れようとした。電話は全くつながらない。地震のすぐ後、自室から実家に無事を知らせたダンナにダンナ父は「朝早くから、何の用?」だったらしい。

マンションのベランダから国道のバイパスが見える。道がいつもよりずっと込んでいる。とりあえず出社することにして、ワタシの車にフタリで乗り込む。朝7時半。

いつもなら会社まで10分。そこここで信号が停電している。ラジオから情報が入ってくる。初めは「たんすが倒れてケガ」「窓が割れてガラスで…」というものだった。状況がわかり始めたのは8時過ぎ。高速道路が倒れた。三宮のセンター街で火災。行方不明者多数。

ワタシ達のシゴト場は、臨海の工業地区。夜間も操業する工場と技術研究所が一緒になっているので、深夜早朝でもヒトはいる。ダイジョウブだったろうか…埋立地との境界の運河を越えると、そこに泥水がたまっていた。液状化現象?路面はダイジョウブなんだろうか…

車列がゆっくりとその水を渡っていく。道路のあちこちに古い道路の轍のように陥没がある。会社について各々の職場に向う時、「ごめん」と言った。言えて良かった。あの時あの地震でどちらかが命を落としていたら…

前夜宿直にあたっていた課長の家が全壊したと聞いた。電車はとまっている。それでなくても通勤に2時間ちかくかかる距離だ。「歩いてでも…帰る…」

だんだんに入ってくる被災情報。事態が深刻なことがわかってきたのは、もうお昼になろうとするころ。電車の駅が全壊。高架線路が半壊。大規模火災が発生。でも、ワタシ達にはどうしようもない… 大阪湾の向こうの空がくすんで見えた。 普段であれば、高速道路で1時間もかけずに行くことができる街は、どうにも到達できないトコロになっていた。

今ほど携帯電話は普及していなかった。PHSを持ってるヒトはいたが、それも普段でも電波状態は悪かった。

そして数日後、テレビに映し出された街は、ワタシが学生時代を過ごした町並みは瓦礫の中だった。友人達と長い時間話した波止場は、波の中だった。それまでに仲のよかった友人とは連絡が出来ていた。それでも毎夜、揺り返しの恐怖で眠れない時間をテレビの安否情報を見て過した。PTSDというコトバはまだ一般的ではなかった。でも、みんながそうだったんだと思う、今も…

Mama05_3 あの多くのヒトの名前の列を忘れない。一人ずつに生活があり生きていた時間があり、血のつながったヒトビトがあり、好きだったもの苦手だったものがあった。みな、誰かに迷惑をかけ、誰かの迷惑を被り、誰かからモノを買い、誰かの助けになり生きていた。

きっと12年後の今日も生きていたかったヒト達だった。

ごめんなさい。今、迷い、不平を言い、怠けようとするワタシ達を見ていて、きっと腹立たしいことでしょう。「じゃぁ!替わってあげる!」そう言いたいでしょう。

替わってあげることができないから、一生懸命やっていくしかないです。もっと生きていたかったと、その時きっとワタシも思うから。

あの名前の列が「ヒト」であること思い返すたび、あの瓦礫の街を思い出すたび、寂しく辛い気持ちと「やらねば…」の決意が湧いてきます。ありがとう…。

   

「ごめんなさい」を誰かに言いたいなら、時間を待っていてはいけないです。二度と言えない言葉になるかもしれないから。

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